こころの水槽の話
私はしあわせな人間である。
……というとかなりおめでたい感じがすると思うが、実際、おめでたいくらいの方が人生たのしいと、最近そう思う。
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自分で言うのもなんだけれども、私は恵まれた家庭環境で育っていると思うし、精神的にもわりかし安定していると思う。
そして自分は「しあわせ」であると思っている。しかし、だからといって嫌な事や辛い事が全くないような人生を送っているわけでは決してない。
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では、なぜ私は自分のことを「しあわせ」だと思えるのだろう?
嫌な事や辛い事は私の中でどう処理されているのだろう?
たぶん、それらの「いやなこと」はそのほかの「よいこと」たち、承認されることや愛されることによって希釈されているのではないだろうか。
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こころが水槽であるとすると、その水槽には注ぐ蛇口が2つある。
蛇口のひとつは「よいこと」のでる「正の蛇口」、もうひとつは「いやなこと」のでる「負の蛇口」だ。
まあモデルの形式的に「水がたされていくことによってこころの中身は代謝されていく(溢れたぶんは消え去っていく)」という主張であることはわりとすぐにわかってもらえると思う。
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端的に言うと、こころを「しあわせ」な状態に安定させられるかどうかは、誰にでも訪れる「いやなこと」をどれだけ「よいこと」で薄められるか、また、薄められると信じられるかにかかっていると思う。
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安定したにんげん、自らが「しあわせ」だと思えるひとは、正の蛇口からの安定した供給を前提として成長してきている。
「よいこと」は今までも降ってきたし、当然これからもそうであると信じている。
水槽のなかには「よいこと」のストックも沢山あるし、多少の「いやなこと」くらい薄めて乗り越えられると、そう思っている。
対して「しあわせではない」と感じるひと、この人たちは正の蛇口からの供給が不安定な状態で成長してきたひと、な気がする。
「よいこと」があるときはそれなりに楽しく感じることはできるし、刹那的に幸せを感じもする。
でも、水槽が空っぽのタイミングで希釈されない「いやなこと」が注がれて仕舞えばそれは当然心に刺さるし、いつか薄まる見込みもないから耐えるのも辛い。二重に辛い。
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つまり、たぷたぷに水の入ったコップ(しかも水がどんどん足されている!)にインクを差したのと、カラカラのコップ(水が足されるかはわからない)にそうしたのなら、前者のほうが明らかにすぐに飲めるようにはなるだろうと、そういうことだ。
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上でも少し触れたが、「よいこと」の供給が不安定であればそのときどきに訪れる苦しみや痛みがいつまで続くかわからない。これは、余計に精神を苛むことであろう。
また、いくら「よいこと」の絶対量があろうとも、供給が不安定ならこころの安定はつくられない。
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隣のひとのこころが「しあわせ」でないよりは、「しあわせ」である方がこちらだって嬉しい。
だから、私たちはしばしば、ひとに「よいこと」を注ごうとする。
それによってその隣人が「しあわせ」を得ることはまああり得る。でも、そこに至ることはきっと案外とむずかしいことだ。
思うにそれは、「よいこと」を安定に注いであげるのにはやはりそれなりの労力と努力が必要であり、たいていのひとはそこでつまづいてしまうからだ。
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ひとに「よいこと」をすると誰でも悪い気はしないし、自分に酔えばなお楽しい。
でもそんな理由でされる供給は安定したものになり得ない。
主体の気分なんてものに惑わされているうちは、駄目なのだ。
必要なのは無償の愛と根気強さだ。
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「無償の愛と根気強さをもって接する」って、なんとなく、親っぽいと思いません?
私としてはそれは当然で、何故なら産まれたばかりの空の水槽を安定な環境まで育てあげるのが親の役割だと思ってるから。
不安定を安定にするには、安定したひとが「親」の代わりになる必要があるのである。
ついでに言うと、「親」となる彼/彼女は当面のところ「子」はひとりに絞るべきだと思う。
板挟みになりどちらかを犠牲にしてしまうようなことのないよう、細心の注意を払っていくのは並大抵にできることではないですから。
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他にもいろいろ派生して思うことはあるのだけれど、とりあえず今回はこんなところにしておこうと思う。
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感想として最後に少し。
今回こんなことを考えてみて、最終的に「結局安定したにんげんをつくるのは親の愛情なんだな」って結論が出たのは自分でもわりとびっくりしたことでした。
普段はわりと、専業主婦/共働きの話とか見ても「まあ生活の安定が一番でしょ」とか安易に思う者だったので。
今回出した結論なんてきっかけがあればいとも簡単にひっくりかえってしまうだろうけど、でも、現時点の自分としての意見がちょっと纏ってそういう点でとても興味深かったです。
(2016.11.17)