科学哲学あたりの話
科学と非科学とはどのようなものか、といったことについて、「科学は事実に基づくから正しい!」とか、「非科学は証拠がない。信頼できない!」とか。それっぽい言説は結構あると思います。
でもまず言っておきたいこととして、それって実は、科学哲学の内部に存在している言葉たちだと思うんです。
科学とは何か。何をもって科学とするのか。
それを問うのが科学哲学であるとすれば、科学/非科学というのはみな科学哲学の内側に定義されるものなのです。
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では科学哲学は科学か。
これについては、多くの人が「違う」と答えると思いますし、私もそう思います。なぜなら科学哲学を科学(つまり科学哲学の内部)に取り込み、かつ科学についての正当な議論をすることはできないと思うからです。
つまり、「科学って何か」を決めるのは「非科学」なのです。
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ここで先ほどの「非科学は信頼できない!」という言葉について考えてみましょう。私見ですがこの発言者はきっと、「非科学」と「似非科学」をごっちゃにしてしまっているのでしょう。
「似非科学」というのは「科学」のふりをした「非科学」のことで、詐欺やそれまがいの商法などで使われたりもします。
実際これらに共通することといえば、科学的根拠に乏しく、また提唱者に有利なことであるというのが考えられます。なので「信頼できない」といった評も、似非科学に対しては間違ってもいないものだと思います。
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ではもっと一般的に考えた「非科学」というのはどうでしょうか。
「非科学」の代表格といて思いつきやすいものに「宗教」があるような気がします。(実際にはその辺にある「科学」でないものは全て「非科学」なわけですが。)
宗教を「宗教」足らしめるものとは何か。それは、個人的には、さしたる科学的証拠などを必要とせず、何かを信じるその信仰だと思います。
そしてその信仰(信条と言い換えても良いでしょう)はまた、「非科学」のなかに普遍的に存在するものだと思います。
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ここで「科学哲学」の話に戻ります。
科学哲学は「科学」を俯瞰したものですが、科学哲学が「科学」でない以上、科学哲学で述べられることに「科学的根拠」(そもそもこのようなものが存在するかどうかというのも科学哲学で論じられることなのでありますが)はありません。
すると、科学哲学はあるものが「科学」として正当かどうかを「科学的」には論じられません。では、「科学」というものはいったい何なのか。何が科学を「科学」たらしめているのでしょうか。
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私は、それは「科学」への信仰だと思います。
「科学」は「宗教」。科学というのは信仰されることにより「科学」というアイデンティティを獲得し、また「科学」であるのです。
つまり、何が言いたかったかというと、「科学」と「非科学」は決して対立するものではなく、むしろ「科学」というのは「非科学」の土台がなくてはその概念すら存在し得ないものであるのだということです。
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収拾がつかなくなってきたのでそろそろ終わろうと思います。
こういうのって書いてるうちに整理されてくることもあるので、時々やっていきたいなぁと思います。頑張ります。
言語は生物かもしれない話
言語学は生物学である。
……といきなり言われても、という感じだと思うのですが、個人的な所感として本当にそうだと思うんですね。
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まず言語は生物(なまもの)である、というのはわりと受け入れられやすいような話であると思います。
時代とともに変遷していき、使用者によっても姿を変えます。定められた構造に縛られるようなお堅いものでは決してありません。
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では言語の何が生物(せいぶつ)と似ているって、その時間に伴う変化の過程が進化そのものということです。
生物の進化の流れについて一応ざっくりいっておくと、
・まずどれかしらの個体に遺伝子レベルで何かしらの変化が起きる
↓
・偶然または自然選択により、その形質が淘汰されるか残るかなんかする
↓
・そんなこんな繰り返してていつかは種レベルでの変化が起きてたりすることもある
といった感じ(の説が有力)です。
そしてこれを言語について当てはめてみると……
・まずどれかしらの使用者において単語/文法に何かしらの変化が起きる
↓
・偶然または自然選択(社会の時流)により、その様式が淘汰されるか残るかなんかする
↓
・そんなこんな繰り返してていつかは言語体系レベルでの変化が起きてたりすることもある
ほら!結構うまく行くと思いませんか?言語の変遷は生物の進化にかなり近似して考えられると思うのです。
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すると進化/分類学以外の分野はどうなるのかということですが、これはその時々での種々の言語の構造の比較や、言語内部の仕組みなどを考えるのが、生物学でいう比較生物学や細胞生物学などにあたるのではないでしょうか。(ここはちょっと適当)
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と、まあそんな感じで、言語学系の本を読んでみた、感想がわりにまとめてみました。
言語というのは何か考える手段となることが多いですが、対象としても面白いものだなと改めて感じさせられました。
こころの水槽の話
私はしあわせな人間である。
……というとかなりおめでたい感じがすると思うが、実際、おめでたいくらいの方が人生たのしいと、最近そう思う。
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自分で言うのもなんだけれども、私は恵まれた家庭環境で育っていると思うし、精神的にもわりかし安定していると思う。
そして自分は「しあわせ」であると思っている。しかし、だからといって嫌な事や辛い事が全くないような人生を送っているわけでは決してない。
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では、なぜ私は自分のことを「しあわせ」だと思えるのだろう?
嫌な事や辛い事は私の中でどう処理されているのだろう?
たぶん、それらの「いやなこと」はそのほかの「よいこと」たち、承認されることや愛されることによって希釈されているのではないだろうか。
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こころが水槽であるとすると、その水槽には注ぐ蛇口が2つある。
蛇口のひとつは「よいこと」のでる「正の蛇口」、もうひとつは「いやなこと」のでる「負の蛇口」だ。
まあモデルの形式的に「水がたされていくことによってこころの中身は代謝されていく(溢れたぶんは消え去っていく)」という主張であることはわりとすぐにわかってもらえると思う。
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端的に言うと、こころを「しあわせ」な状態に安定させられるかどうかは、誰にでも訪れる「いやなこと」をどれだけ「よいこと」で薄められるか、また、薄められると信じられるかにかかっていると思う。
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安定したにんげん、自らが「しあわせ」だと思えるひとは、正の蛇口からの安定した供給を前提として成長してきている。
「よいこと」は今までも降ってきたし、当然これからもそうであると信じている。
水槽のなかには「よいこと」のストックも沢山あるし、多少の「いやなこと」くらい薄めて乗り越えられると、そう思っている。
対して「しあわせではない」と感じるひと、この人たちは正の蛇口からの供給が不安定な状態で成長してきたひと、な気がする。
「よいこと」があるときはそれなりに楽しく感じることはできるし、刹那的に幸せを感じもする。
でも、水槽が空っぽのタイミングで希釈されない「いやなこと」が注がれて仕舞えばそれは当然心に刺さるし、いつか薄まる見込みもないから耐えるのも辛い。二重に辛い。
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つまり、たぷたぷに水の入ったコップ(しかも水がどんどん足されている!)にインクを差したのと、カラカラのコップ(水が足されるかはわからない)にそうしたのなら、前者のほうが明らかにすぐに飲めるようにはなるだろうと、そういうことだ。
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上でも少し触れたが、「よいこと」の供給が不安定であればそのときどきに訪れる苦しみや痛みがいつまで続くかわからない。これは、余計に精神を苛むことであろう。
また、いくら「よいこと」の絶対量があろうとも、供給が不安定ならこころの安定はつくられない。
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隣のひとのこころが「しあわせ」でないよりは、「しあわせ」である方がこちらだって嬉しい。
だから、私たちはしばしば、ひとに「よいこと」を注ごうとする。
それによってその隣人が「しあわせ」を得ることはまああり得る。でも、そこに至ることはきっと案外とむずかしいことだ。
思うにそれは、「よいこと」を安定に注いであげるのにはやはりそれなりの労力と努力が必要であり、たいていのひとはそこでつまづいてしまうからだ。
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ひとに「よいこと」をすると誰でも悪い気はしないし、自分に酔えばなお楽しい。
でもそんな理由でされる供給は安定したものになり得ない。
主体の気分なんてものに惑わされているうちは、駄目なのだ。
必要なのは無償の愛と根気強さだ。
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「無償の愛と根気強さをもって接する」って、なんとなく、親っぽいと思いません?
私としてはそれは当然で、何故なら産まれたばかりの空の水槽を安定な環境まで育てあげるのが親の役割だと思ってるから。
不安定を安定にするには、安定したひとが「親」の代わりになる必要があるのである。
ついでに言うと、「親」となる彼/彼女は当面のところ「子」はひとりに絞るべきだと思う。
板挟みになりどちらかを犠牲にしてしまうようなことのないよう、細心の注意を払っていくのは並大抵にできることではないですから。
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他にもいろいろ派生して思うことはあるのだけれど、とりあえず今回はこんなところにしておこうと思う。
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感想として最後に少し。
今回こんなことを考えてみて、最終的に「結局安定したにんげんをつくるのは親の愛情なんだな」って結論が出たのは自分でもわりとびっくりしたことでした。
普段はわりと、専業主婦/共働きの話とか見ても「まあ生活の安定が一番でしょ」とか安易に思う者だったので。
今回出した結論なんてきっかけがあればいとも簡単にひっくりかえってしまうだろうけど、でも、現時点の自分としての意見がちょっと纏ってそういう点でとても興味深かったです。
(2016.11.17)
いつだって「現在」という話
原始時代でもない、科学の発達仕切った未来でもない、「現在」に生きてるのは不思議な気もしませんか。
いやまあこれは「私はなんで私なのか」の類題で、「いやそうだからこそあんたなんだろう」ってことで実際なんでもないんだけど。
ちょっと思っただけ。
でもそこのところをちょっと無視して、ひねくれて考えるといろいろ考えつくからそれもそれでおもしろい。
まず「科学の完成不可能性」みたいのが導き出されるんだった。たしか、人類の栄華が永遠に続くと仮定した場合。
もしくは、似た論法から「人類はもうすぐ滅びる」も出せたはず。
なんかほかにもいろいろあるけど書くのめんどくさいしまあこんなところで。(無責任)
(2016.11.14)
心理的なパーソナルスペースと自己の話
(はじめに)
なんかの過去問で読んだ話を下敷きとしているのですが、なんの本かとかわからないので引用とかなくごちゃ混ぜになって書かれています。御容赦を。m(_ _)m
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SNSにおいて本名・顔は秘匿される。
現実世界においてID・垢名は秘匿される。
本名や顔などの個人情報(以下単に「本名」)と、ID・垢名などSNSの特定情報(以下単に「半値」)は、どちらがより「大事に隠すべきもの」なのか?
結論としては、それはどちらでもない。
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ここで一度人間関係のなかにおける”自己”の話をしてみよう。
昔…すべての人間関係が同一線上にある
自己の分割は同心円状
心を許した他人は「内側へ招待」する
(図1)
今…人間関係が多方面に存在する
それぞれの区画が独立に同心円状
中心も分割されている
心を許した他人への対応は2通り
①同区画のより内側の部分へと招待する
②別区画への鍵を渡す
(図2)
このような変遷は基本的に、社会生活の構造の変化と科学の進歩によるものであると考えられる。
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そして、ここでいう「別区画への鍵」こそが、「SNS区画における本名」「現実区画(細かい定義は保留)における半値」であると考えられる。
つまり、これらはある区画ではそれなりに隠されるものであるが、他の区画ではそれこそが「表」であったりもするものなのである。
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では、分割された人間関係における「自己」というのは一体何か。
それは、今回のモデルに対応させて例えると、「マスターキィ」だと考えられる。
マスターキィは、それによりどの区画へのアクセスをも可能にするもの。そして同時に、マスターキィ自体にはあくまで「人格」は存在しない。
つまり、現代において「自己」というのは単一の「或るもの」ではなく、複数の「或るもの」同士を行き来する能力の範囲のことを指すのだと思う。
そしてこの解釈により、各区画での「キャラ」が素晴らしく乖離していて、かつそのどれもがほんとうである(「ほんとう」のキャラと「にせもの」のキャラが存在するといったような感覚は適さない。強いていえば、ある区画から見たその他の区画がその区画に対する「にせもの」であると表現することは可能であるかもしれないが)ことが両立されるようになる。
以上が主な内容である。
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ここから余談。
ここまで、現代社会においては「自己」は分割された区画同士の関係のなかに存在する、という話を主にしてきた。
では、一種呪術的な意味をも持つ、「真実の名」(例えばゲド戦記にあらわれるような)というのは現代にはもう存在しないのであろうか。
個人的には、私はそのような「真実の名」はもう存在しないと考えている。
なぜなら、自己の本質が「もの」ではなく「もの同士の関係」にある以上、それを把握するためには「手に入れる」のではなく「トレスする」ことが必要であり、また他の自己の完全なトレスというのは人間には不可能だからだ。
(他者を完全にトレスしてしまえばその主体の自己は上書きされて消えてしまう)
もしかすると、「現代っ子はわかりづらい」「何を考えているのかわからない」などの発言も、元を正せばこのあたりの認識の差異から来ているのかもしれない。
単一のものとしての自己をもつ人間には伝わりにくい、トレスの不可能性なのだ。
と、まあ余談が長くはなりましたが、こんなところでとりあえず終わりたいと思います。
校正も甘い文章なので表記の不統一などがあればごめんなさい。
こんな文ですがもしも読んでくださった方がいればほんとうにありがとうございました!
終わります。(*´꒳`*)
(2016.11.8)