心理的なパーソナルスペースと自己の話
(はじめに)
なんかの過去問で読んだ話を下敷きとしているのですが、なんの本かとかわからないので引用とかなくごちゃ混ぜになって書かれています。御容赦を。m(_ _)m
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SNSにおいて本名・顔は秘匿される。
現実世界においてID・垢名は秘匿される。
本名や顔などの個人情報(以下単に「本名」)と、ID・垢名などSNSの特定情報(以下単に「半値」)は、どちらがより「大事に隠すべきもの」なのか?
結論としては、それはどちらでもない。
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ここで一度人間関係のなかにおける”自己”の話をしてみよう。
昔…すべての人間関係が同一線上にある
自己の分割は同心円状
心を許した他人は「内側へ招待」する
(図1)
今…人間関係が多方面に存在する
それぞれの区画が独立に同心円状
中心も分割されている
心を許した他人への対応は2通り
①同区画のより内側の部分へと招待する
②別区画への鍵を渡す
(図2)
このような変遷は基本的に、社会生活の構造の変化と科学の進歩によるものであると考えられる。
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そして、ここでいう「別区画への鍵」こそが、「SNS区画における本名」「現実区画(細かい定義は保留)における半値」であると考えられる。
つまり、これらはある区画ではそれなりに隠されるものであるが、他の区画ではそれこそが「表」であったりもするものなのである。
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では、分割された人間関係における「自己」というのは一体何か。
それは、今回のモデルに対応させて例えると、「マスターキィ」だと考えられる。
マスターキィは、それによりどの区画へのアクセスをも可能にするもの。そして同時に、マスターキィ自体にはあくまで「人格」は存在しない。
つまり、現代において「自己」というのは単一の「或るもの」ではなく、複数の「或るもの」同士を行き来する能力の範囲のことを指すのだと思う。
そしてこの解釈により、各区画での「キャラ」が素晴らしく乖離していて、かつそのどれもがほんとうである(「ほんとう」のキャラと「にせもの」のキャラが存在するといったような感覚は適さない。強いていえば、ある区画から見たその他の区画がその区画に対する「にせもの」であると表現することは可能であるかもしれないが)ことが両立されるようになる。
以上が主な内容である。
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ここから余談。
ここまで、現代社会においては「自己」は分割された区画同士の関係のなかに存在する、という話を主にしてきた。
では、一種呪術的な意味をも持つ、「真実の名」(例えばゲド戦記にあらわれるような)というのは現代にはもう存在しないのであろうか。
個人的には、私はそのような「真実の名」はもう存在しないと考えている。
なぜなら、自己の本質が「もの」ではなく「もの同士の関係」にある以上、それを把握するためには「手に入れる」のではなく「トレスする」ことが必要であり、また他の自己の完全なトレスというのは人間には不可能だからだ。
(他者を完全にトレスしてしまえばその主体の自己は上書きされて消えてしまう)
もしかすると、「現代っ子はわかりづらい」「何を考えているのかわからない」などの発言も、元を正せばこのあたりの認識の差異から来ているのかもしれない。
単一のものとしての自己をもつ人間には伝わりにくい、トレスの不可能性なのだ。
と、まあ余談が長くはなりましたが、こんなところでとりあえず終わりたいと思います。
校正も甘い文章なので表記の不統一などがあればごめんなさい。
こんな文ですがもしも読んでくださった方がいればほんとうにありがとうございました!
終わります。(*´꒳`*)
(2016.11.8)